Arai Koh's Create Life

シナリオライター・アライコウのブログ。創作、新旧のインディーゲームなどについて書きます。

『デイグラシアの羅針盤』レビュー前編――最悪ではあってもバッドエンドではない

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海洋SF同人ノベルゲームの大作『デイグラシアの羅針盤』がNintendo Switchに移植決定!

 先日も記事にしたとおり、サークルカタリストのアドベンチャーゲーム『デイグラシアの羅針盤』はNintendo Switchに移植されることになった。そしてちょうどプレイし終えた私は、本作が多くのノベルゲームファンに楽しまれ、議論されるだろうという確信を持っている。

これは正解のないノベルゲーム。

 本作はこのたった一行をもって、コンセプトを十全に説明している。
 そもそもノベルゲームにおける正解とは何であろうか? まずこれを明確にしておけなければならないだろう。
 恋愛作品であれば、目的のヒロインと結ばれること。
 ミステリーであれば、謎を解き真犯人を暴くこと。
 そしてホラーやサスペンスであれば――生き残ることだ。

 結末がひとつしかない小説と違い、ノベルゲームにはバッドエンドを組み込むことができる。
 あのときの選択を間違っていなければ、失恋することはなかった。真犯人を逃すことはなかった。死ぬことはなかった――。このようなバッドエンドを幾度も経るからこそプレイヤーは感情を昂ぶらせ、トゥルーエンド――正解への欲求を強くする。これがノベルゲームというジャンルの基本構造である。
 バッドエンドシステムはゲームの方向性はもちろん、クリエイターの思想も多分に反映されるものだ。ボリュームを充実させるためになるべく多くの選択肢と結末を用意したい。いやストーリーに集中してほしいから最小限でいい。いやそもそも必要ないから一本道でいい――。
『デイグラシアの羅針盤』はどうだったか。
 諸作品とは異なるアプローチで、トゥルーエンドとバッドエンドの在り方に一石を投じていた。

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オープニングBGMの曲名は「fact」。この物語は“事実”なのだと最初から伝えている。

 

 2033年8月1日、水深700mの海底に沈んだ深海遊覧船「SHEEPⅢ」。
 物語の主人公はこの凄惨な事故で生き残った2人の片割れ。残された記録と彼自身の記憶を辿っていくという形でストーリーは展開する……が、これはシミュレーションであると、序盤の段階でプレイヤーに伝えられる。
 生存者は2人だけという結末、悲劇はすでに固定されているのだ。これから辿るのは、その過程にすぎない。にもかかわらず主人公は逡巡する。

「どうすれば、彼女たちは生きてあの海を出ることができたのか。もし、違う選択をすれば、結果は変わっていたのか」

 どうすればよかったのか――と後悔し、悩むこと自体は何ら特別なことではない。しかし彼の言葉は明確に「過去に存在したはずの選択肢」を想起させる。
 あたかもトゥルーエンドを求めるプレイヤーになったかのように、バッドエンドに抗おうとしているのだ。
 ノベルゲームにはプレイヤーと主人公が同一の視点を持つという特徴があるが、本作においてはその目的意識までも同一化が図られている。この点を見ても、制作者がノベルゲームというジャンルを深く考察しているのがわかる。


 シナリオについても触れていこう。
 海中に閉じ込められた男女。脱出の目処は立たないものの、彼らは解決策を求めて奔走する。そんな中、深海に潜む脅威が徐々に明らかになる――。
 本作がオマージュと仰いでいる『Ever17』と、なるほど共通点が多々見られる。とはいえ『Ever17』には随所にあった選択肢が本作ではほぼ廃されているし、物語の方向性も違う。オマージュはオマージュであり、両者はまったく別物と言っていい。
 さて『Ever17』にはゲームならではの技巧に満ちたシナリオ、仕掛けが多数用意されており、これによって名作の地位を不動のものにした。当然ながら『デイグラシアの羅針盤』にも、プレイヤーをことごとく欺くトリックが用意されている。
 それが何なのかは実際にプレイして確かめていただきたいが、仕掛けられているのはそう複雑ではなく、むしろミステリーにおける定番ではあるのだが、とあるシーンの、とあるシステムとしっかり関連づけられている。これもやはりゲームならではと言えるだろう。
 すべてプレイし終えてあらためて最初から見直すと、こんなにも序盤で“仕掛けられていたのか”と驚かされる。不自然なくそれを見せることに成功したシナリオライターの技量は見事というほかない。


 話をバッドエンドシステムに戻す。
 どうあがこうと2人しか生き残らないという結末。約束された悲劇。しかしある人物は言う。

「最善を目指して最悪に辿り着いたとき――それは、やはり、最善なのだと思います」

 これは結末が複数あるノベルゲームというジャンルにとって、大きな示唆に富んでいる。
 何を持って最善とするか? 単に多くの人が生き残ればそれは最善だろうか? そもそも最善=正解だろうか?
 この問いに関しては、実はかの名作ミステリー『かまいたちの夜』がすでに、ある程度の解答を出している。

 事件発生後、もっとも早い段階で犯人を見つけないと、次々と犠牲者が出てしまう。ところがもっとも早い段階で犯人を暴くと、事件の背景や犯人の動機は明かされない。それらを知るには、その先に進んで新たに1人犠牲者を出してから推理を成功させないといけない。この第二段階のエンディングの余韻は格別で、一番印象的なエンディングに挙げるオールドファンは多いだろう。
 言うまでもなくノベルゲームの主人公はほとんどの場合、最善を目指している(犯人は自分だ、などというおふざけ選択肢を除いて)。たとえ局所的に失敗したとしても、最後にはいい結果で終わるようにと尽力している。それがプレイヤーにとっての最善に繋がる。『かまいたちの夜』の真相判明エンドにしても、悲惨な犠牲者が出ている――最善であるはずがないにもかかわらず、事件のすべてを明らかにしたという意味で、実はゲーム的には最善とも取れるのだ。
※ただしグッドエンド扱いはスーパーファミコン版に限る。後のプレイステーション版以降では明確にバッドエンド扱いになってしまっている。

 翻って『デイグラシアの羅針盤』のアプローチ法である。
 本作は一本道の第一ルート、その途中から分岐する第二ルート、そして最終の第三ルートから成る。明言されていることだし、ネタバレとは言えないと思うので書いてしまうが、第一、第二ルートの主人公は最善を尽くしながらも、すでに固定した「生存者は2名のみ」という結末を変えることはできなかった。あくまでもシミュレーションであるという厳然たる事実は変えようがなかった。
 たった数日間とはいえ行動を共にした仲間たちが死んでいった。望ましい結果であろうはずがない。しかし最善を尽くしたならば、結果はどうあれそれは最善なのではないか……。先述のキャラクターの言葉は、主人公の意思決定のみが反映される一本道のシナリオにおいて、より強力な主張となる。
 ノベルゲームにおける選択肢とは言い換えれば、主人公に強制的にミスをさせる機構だ。そのミスの結果がバッドエンドとなる。つまり選択肢がほぼない本作において、バッドエンドは最初から存在しない。主人公が最善を尽くすというプロセス以外は観測されず、決められた結末へと導かれる。それは最悪ではあってもバッドエンドではない。最悪の中の最善なのだ。

 いずれにせよ『デイグラシアの羅針盤』という物語は、第二ルート終了時点で綺麗に完結していた。
 しかし第三ルートは用意された。「正解のないノベルゲーム」の本当の意味が明らかになる。(後編へ続く)